坐禅儀とは
坐禅儀とは、坐禅の坐法を説明した書物で、中国において1338年に、慈覚大師により編纂されました。信心銘、証道歌、十牛図などと共に禅宗四部録の1つとされています。
坐禅儀には、坐禅の手順や心得が細かく記されており、坐禅の指南書として、宗派を問わず読まれています。
坐禅儀を読む
夫れ学般若の菩薩は、先ず当に大悲心を起こし、弘誓願を発し、精しく三昧を修し、誓って衆生を度し、一身の為に独り解脱を求めざるべし。 |
真の智慧を学ぼうとする修行者は、まず慈悲の心を起こし、誓願を立て、座禅に専心し、必ず衆生を救うと願い、自分一人の解脱を求めてはならない。
乃ち諸縁を放捨し、万事を休息し身心一如にして、動静隔無く、其の飲食を量って多からず少なからず、その睡眠を整えて節せず、恣にせず。 |
ひとまず日常の雑事は忘れて、心身を休息し、振る舞いをゆったりとし、飲食を調節し多くも少なくもなく、睡眠は不足しても取りすぎてもいけない。
坐禅せんと欲する時、閑静処において厚く坐物を敷き、寛く衣帯をつけ、威儀をして斉整ならしめ、然る後結跏趺坐せよ。 |
坐禅をする時には、静かなところに厚く坐布団を敷き、ゆったりとした衣服を着て、姿勢を整えて、そして結跏趺坐をせよ。
先ず右の足をもって、左の腿の上に安じ、左の足を右の腿の上に安ぜよ、或いは半跏趺坐も亦可なり。但左の足を以って、右の足を圧すのみ。 |
右の足を左のももに乗せ、左の足を右のももに乗せる。あるいは半跏趺坐でも良い。この場合は、左足のみを右足に乗せればよい。
次に右の手を以って、左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安じ、両手の大拇指の面を以って相支え、徐々として身を挙し、前後左右、反覆揺振して、乃ち身を正しうして端坐せよ。 |
次に右手を、組んだ足の上に置き、左の手のひらを右の手のひらの上に置き、両手の親指を上の方で合わせる。ゆっくりと体を立て、上半身を前後左右に揺らして、体を真っ直ぐにして端坐する。
左に傾き右に側立ち、前に屈まり後に仰ぐことを得ざれ。腰脊頭頂骨節を相支え、状浮屠の如くならしめよ。又身を聳立つこと太だ過ぎて、人をして気急不安ならしむることを得ざれ。 |
左に傾いたり、右に曲がったり、前へ屈んだり、後ろに仰け反ってはいけない。腰の上に背骨が真っ直ぐ伸び、その上に頭が乗り、あたかも塔がそびえ立つように坐る。また、体が反り返り過ぎて息苦しいのもいけない。
耳と肩と対し、鼻と臍と対し、舌は上の顎を支え、唇歯相著けしめんことを要す。目は須らく微し開き昏睡を致すこと免るべし。若し禅定を得れば其の力最も勝る。 |
耳と肩が垂直に相対し、鼻とへそが垂直に相対し、舌は上あごの歯ぐきあたりを押さえ、唇と歯は一文字に結ぶ。目は少し開き、居眠りをしないようにする。身心が統一された禅定を得れば、その力は最も優れている。
古習定の高僧有り、坐して常に目を開く。向きの法雲円通禅師も亦、人の目を閉じて坐禅するを訶して、以って黒山の鬼窟と謂えり。蓋し深旨有り、達者これを知るべし。 |
昔から坐禅を行う高僧は、常に目を開けている。法雲円通禅師も目を閉じて坐禅をしている僧を見て「暗い洞窟に住む鬼のようだ」と叱った。この言葉には深い意味がある。修行者達はよく考えてるべきである。
身相既に定まり、気息既に調い、然る後臍腹を寛放し、一切の善悪総て思量すること無かれ。念起らば即ち覚せよ。之を覚すれば即ち失す。久々に縁を忘じて自ら一片となる。これ坐禅の要術なり。 |
坐禅の姿勢が決まり、呼吸を調えたなら、大きく息を吐き出して、一切の善悪など考えないようにする。もし何かの考えが浮かんだらそれは雑念であり、雑念が出たら捨ていきなさい。そうすれば、ついには雑念はなくなり、身心が一つに統一される。これが坐禅の重要な点である。
密か思うに坐禅は乃し安楽の法門なり。而も人多く疾を致す蓋し用心を善くせざるが故なり。若し善く此の意を得れば、即ち自然に四大軽安、精神爽利、正念分明にして、法味神を資け、寂然として清楽ならん。 |
思うに坐禅は安楽の法門である。しかし、修行者の中には病気になる者が少なくないが、これは用心をしないからでる。この意味を理解すれば、自然と心身共に軽やかで爽快となり、頭の中は明晰になり、真の智慧を得て、落ち着き幸福感を覚えるだろう。
若し既に発明ある者は、謂う可し龍の水を得るが如く、虎の山に靠るに似たらん。若し未だ発明有らざる者も、亦乃ち風に因って火を吹けば力を用うること多からざらん。但肯心を弁ぜよ、必ず相賺らざれ。 |
もし悟りの力を得るなら、まるで水を得た龍の如く、深山に潜む虎の如くなるだろう。また、悟りに至らない修行者たちも、例えば風上から火をつければ風の力を借りて火が燃え広がるように、悟りは見えてくるだろう。常に正直に修行をし、手抜きをしてはならない。
然り斯うして道高ければ魔盛んにして、逆順万端なり。但能く正念現前せば、一切留礙すること能わず。楞厳経、天台の止観、圭峰の修証儀の如き、具に魔事を明かす。予め不虞に備うる者は知らずんばある可ならず。 |
修行が進むと、様々な魔物が現れ修行の邪魔をする。その時には正しい見解と信念を持てば、どんな誘惑にも邪魔をされることはない。楞厳経、天台止観、圭峰禅師の修証儀などには、魔障について具体的に書いてある。心配な者は予め読んでおけば良いだろう。
若し定を出でんと欲せば、徐々として身を動かし安詳として起ち、卒暴なることを得ざれ。出定の後も、一切時中常に方便を作し、定力を護持すること嬰児を護るが如くせよ。即ち定力成じ易からん。 |
坐禅を終わるときには、ゆっくり体を動かして、落ち着いて立ち上がり、粗暴に動いてはならない。坐禅を終わった後も、常時工夫して、赤ん坊を護るように定力を維持しなければならない。このようにすれば、定力は強くなるだろう。
夫れ禅定の一門は最も急務たり。若し安禅静慮ならずんば、這裏に到って惣に須らく茫然たるべし。 |
禅宗において禅定の修行は最も重要である。もし禅定の修行を行わなければ、死に至った時、忙然自失するだろう。
所以に珠を探るには宜しく浪を静むべし。水を動かせば取ること応に難かるべし。定水澄静なれば心珠自ら現ず。 |
水中の宝石を探すには、波が静かでなくてはけない。水が動けば、宝石を取ることができない。水が静かで澄んでいれば、宝石の方から自然に輝き始める(禅定により心の波を静めれば、仏性を覚ることができる)
故に円覚経に曰く、無礙清浄の慧は皆禅定に依って生ずと。法華経に曰く、閑処に在って其の心を修摂し、安住不動なること須弥山の如くせよと。 |
円覚経には、「何ものにも囚われない清浄な智慧は、禅定から生まれる」とあり、法華経には、「静かな処で心を集中して、須弥山のよう安住不動にしなさい」とある。
是に知んぬ、凡を超え聖を越えるは必ず静縁を仮る。坐脱立亡は須らく定力に依るべし。一生取弁するも尚蹉跎たらんことを恐る。 |
凡人や聖人を超えるには、禅定の力が不可欠である。過去の高僧が坐禅したまま亡くなったり、立ったまま亡くなったりできたのも定力によるのである。修行をしても思うようにならず、つまずくことも多い。
況や乃ち遷延せば何を将て業に敵せん。 故に古人曰く、若し定力無くんば死門を甘伏し、目を覆うて空しく帰り、宛然として流浪せん。 |
その上だらだらと過ごしていては、どうして業に立ち向かうことができようか。昔の人は言った、「定力の無い者は、死に臨んで、慌ててうろたえるばかりで、どうすることもできない」
幸いに諸禅友、斯の文を三復せば、自利利他、同じく正覚を成ぜん。 |
坐禅修行を志す者は、この文章を三度繰り返し読んで、自他を利し、真の智慧に目覚めることができるだろう。