老子とは
老子とは、紀元前6世紀頃(春秋戦国時代)の中国の哲学者で、「老子(老子道徳経)」を書いたとされていますが、その履歴には不明な部分も多くあります。後に生まれた道教では、老子を始祖と置いています。
老子は、「無為の治」(自然に任せること)を理想の政治とし、「小国寡民」(小さな国で少ない民)を理想の国として説いています。
上篇(道経)
【體道第一】道の道とす可きは、常の道に非ず。名の名とす可きは、常の名に非ず。名無きは天地の始めにして、名有るは万物の母なり。故に常に無は以て其の妙を観んと欲し、常に有は以て其の徼を観んと欲す。此の両者は同じきより出でて名を異にす。同じく之を玄と謂う。玄の又玄は、衆妙の門なり。 |
【一】これが道だと示せるものは不変の道ではない。これが名だと示せるものは不変の名ではない。天地の始まりには名は無く、万物が現れてから名が有る。そのため、欲の無い者は世の中の本質を見ることができ、欲のある者は世の中の現象しか見えない。この二つは同じものから出てくるが、呼び方が異なっている。この同じものを「玄」といい、「玄」の中でも最も「玄」なものからあらゆる「妙」が生まれてくる。
- 道可道、非常道(道の道とすべきは、常の道に非ず)
巻頭のことばであり、真の道は絶対不変の固定した道ではないという意味です。万物は一瞬も止まることなく変化しており、変化こそ宇宙の本質であり、事物を常に変化において捉えなくてはならないとしています。
【養身第二】天下皆美の美たるを知る、斯れ悪なるのみ。皆善の善たるを知る、斯れ不善なるのみ。故に有無相生じ、難易相成り、長短相形し、高下相傾き、音声相和し、前後相随う。是を以て聖人は、無為の事に処り、不言の教えを行う。万物作りて辞せず、生じて有せず、為して恃まず、功成りて居らず。夫れ唯だ居らず、是を以て去らず。 |
【二】世の中の人々は美しいものは美しいと思っているが、それは醜いものである。世の中の人々は善いものは善いと思っているが、それは善くないものである。有は無があるから生まれ、難しいものは易しいものがあるから存在し、長いものは短いものがあるから形となり、高いものは低いものがあるから現れ、音声は互いに調和し、前と後ろは互いに並びあう。そのため、聖人は無為の立場をとり、言葉を使わず教えを伝える。万物の自生にまかせて作為を加えず、物を作り出しても所有せず、行動しても見返りを求めず、功績を上げてもそれに依存しない。依存しないから、功績はなくならない。
【安民第三】賢を尚ばざれば、民をして争わざらしむ。得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗を為さざらしむ。欲すべきを見さざれば、民の心をして乱れざらしむ。是を以て聖人の治は、其の心を虚しくして、其の腹を実たし、其の志を弱くして、其の骨を強くし、常に民をして無知無欲ならしめ、夫の知者をして敢えて為さざらしむ。無為を為せば、則ち治まらざる無し。 |
【三】才能を尊重しなければ、人々は争わなくなる。珍品を貴重に思わなければ、人々は盗みをしなくなる。欲望を抱くものを見せなければ、人々の心は乱れなくなる。そのため聖人の統治は、人々の心を単純にさせて腹を満たし、志を弱めて筋骨を丈夫にし、常に無知無欲にして、あの知者に行動させないようにする。無為を貫けば、国が上手く治まらないということはない。
- 爲無爲、則無不治(無為を為せば、則ち治まらざる無し)
支配者が特別なことを行わなくても、自然に任せれば国はうまく治まると説いており、老子の考える理想の政治を表しています。
【無源第四】道は冲にして之を用うるに、或いは盈たず。淵として万物の宗に似たり。其の鋭を挫き、其の紛を解き、其の光を和らげ、其の塵を同じくす。湛として存する或るに似る。吾、誰の子なるかを知らず。帝の先に象たり。 |
【四】道は空の容器であり、用いるときに中身が満たされることはない。淵のように深く、万物の根源のように見える。すべての鋭さを鈍くして、煩わしさを解きほぐし、光を和らげ、塵の中に埋もれてしまう。満々と水を湛えていつもそこに存在している。道が誰の子であるのか知らない。皇帝の祖先のようである。
【虛用第五】天地は仁ならず、万物を以て芻狗と為す。聖人は仁ならず、百姓を以て芻狗と為す。天地の間は、其れ猶お槖籥のごときか。虚にして屈きず、動きて愈〻出づ。多言は数〻窮す。中を守るに如かず。 |
【五】天地には仁愛はなく、万物は藁の犬のようなものだ。聖人には仁愛はなく、百姓を藁で作った犬のように扱う。天地の間は鞴(ふいご)のようなもので、空虚だが尽きることはなく、動かすほど万物が生まれてくる。言葉が多いほど行き詰まる。虚心なのがもっとも良い。
【成象第六】谷神は死せず。是を玄牝と謂う。玄牝の門、是を天地の根と謂う。綿綿として存するが若く、之を用うれども勤きず。 |
【六】谷の神は死なない。それは神秘的な牝と呼ばれている。神秘的な牝の門を天地の根源である。ずっと続いて存在しているようであるが、いくら使っても尽きることはない。
【韜光第七】天は長く地は久し。天地の能く長く且つ久しき所以の者は、其の自ら生きざるを以てなり。故に能く長生す。是を以て聖人は、其の身を後にして身先んじ、其の身を外にして身存す。其の私無きを以てに非ずや。故に能く其の私を成す。 |
【七】天は永遠であり、地は悠久である。天地が永遠不変である理由は、自ら生命を延ばそうとしないからである。だから長く存続できる。だから聖人は、自分を後回しにしながら先になり、自分を世俗の外に置きながら、その内側にある。聖人は自分の欲求のために行動しないが、そのため目的を達成できる。
【易性第八】上善は水の若し。水は善く万物を利して争わず。衆人の悪む所に処る。故に道に幾し。居るには地を善くし、心は淵なるを善しとし、与うるには仁なるを善しとし、言は信なるを善しとし、正は治まるを善しとし、事には能あるを善しとし、動くには時なるを善しとす。夫れ唯だ争わず、故に尤無し。 |
【八】最上の善は水のようである。水は万物に恵みを与えても争わず、人々が嫌がる低いところにある。そのため、水は道に近いのである。身の置き場は低いところが良く、心は奥深いのが良く、与えるものは思いやりがあるものが良く、言葉は誠実なものが良く、政治はよく治まるのが良く、物事は成り行きにまかせるのが良く、行動は時宜を得ていることが良い。それらは争うことがなく、だから咎められることはない。
- 上善若水(上善は水のごとし)
水は万物を育てながら、自ら主張せず低きへ下る。変化に柔軟に応じ、その働きに無理はない。この水のように、人に遜(へりくだ)り争わない姿勢こそが、最上の善であると説きます。
【運夷第九】揣えて之を鋭くするは、長く保つ可からず。金玉、堂に満つれば、之を能く守る莫し。富貴にして驕れば、自ら其の咎を遺す。功成り名遂げて身退くは、天の道なり。 |
【九】器を満たしたまま保つのはやめたほうがよい。刃を鍛えて鋭くしても、長く保つことはできない。金や宝玉が部屋いっぱいにあっても、これを守り続けることはできない。富を手に入れても驕れば、自ら災難を招く。功績を上げたら身を退ける、それが天の道である。
【能爲第十】営魄を載せ一を抱き、能く離るること無からん。気を専らにし柔を致して、能く嬰児たらん。玄覧を滌除して、能く疵無からん。民を愛し国を治め、能く無為ならん。天門開闔して、能く雌たらん。明白四達して、能く無知ならん。之を生じ之を畜い、生じて有せず、為して恃まず、長じて宰せず。是を玄徳と謂う。 |
【十】身心をしっかり持って統一させ、離れないように保てるか。気を集中して柔軟にして、赤子の状態を保てるか。玄妙に洗い清めて、傷をつけないように保てるか。民衆を愛して国を治めるのに、知恵に頼らずにいられるか。天の門が開閉している時に、女性のように静かでいられるか。あらゆるものが明白なのに、知らないままでいられるか。生命を生み出し養い育てても、これを所有せず、恩を施しても見返りを求めず、成長させても支配はしない。これが奥深い徳である。
【無用第十一】三十の輻、一轂を共にす。其の無に当りて、車の用有り。埴を埏ねて以て器を為る。其の無に当りて、器の用有り。戸牖を鑿ちて以て室を為る。其の無に当りて、室の用有り。故に有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり。 |
【十一】三十本の輻(スポーク)が車輪の中心に集っている。何もない空間があることで、車輪が回り有用になる。粘土を固めて器を作る。その何もない器の空間によって、器が有用になる。戸や窓を開けて家を建てる。その何もない空間によって、家が有用になる。だから形あるものが利益を生むのは、何のない空間が有用であるからだ。
【檢欲第十二】五色は人の目をして盲ならしむ。五音は人の耳をして聾せしむ。五味は人の口をして爽わしむ。馳騁田猟は人の心をして発狂せしむ。得難きの貨は人の行いをして妨げしむ。是を以て聖人は腹の為にして目の為にせず。故に彼を去てて此を取る。 |
【十二】華やかな色は人の目を見えなくさせ、美しい音は人の耳を聞こえなくさせ、豊かな味は人の味覚を麻痺させ、野を駆けて狩猟をすることは、人の心を狂わせ、珍しい財宝は、人の行いを妨げる。その為、聖人は人々の腹を満たしても、目を楽しませることはしない。目に惑わされず、腹を取るのである。
【猒恥第十三】寵辱驚くが若く、大患を貴ぶこと身の若し。何をか寵辱驚くが若しと謂う。寵を下と為す。之を得ては驚くが若く、之を失いては驚くが若し。是を寵辱驚くが若しと謂う。何をか大患を貴ぶこと身の若しと謂う。吾に大患有る所以の者は、吾が身有るが為なり。吾が身無きに及びては、吾何の患いか有らん。故に貴ぶに身を以てして天下を為むる者、則ち以て天下を寄す可し。愛するに身を以てして天下を為むる者、乃ち以て天下を託す可し。 |
【十三】寵愛や屈辱は人々を狂ったようにさせてる。大きな災いを重んじることは、我が身を重んじることだ。寵愛や屈辱に狂ってしまうのは何のためか。人々は寵愛を得たときは狂ったように興奮し、寵愛を失ったときは狂ったように落胆する。このような状態を狂ったような状態という。大きな災いを重んじることは、我が身に執着しているからだ。私が大きな災いを受けるのは、我が身に執着しているからだ。我が身に執着しなければ、災いを降りかかることはない。その為、自分の身を大切にして天下に尽くすなら、その者に天下を任せることができ、自分の身を愛おしみながら天下に尽くすなら、その者に天下を預けることができる。
【贊玄第十四】之を視れども見えず、名づけて夷と曰う。之を聴けども聞こえず、名づけて希と曰う。之を搏えんとすれども得ず、名づけて微と曰う。此の三者は致詰す可からず。故に混じて一と為る。其の上は皦かならず、其の下は昧からず。縄縄として名づく可からず、無物に復帰す。是を無状の状、無物の象と謂う。是を忽恍と為す。之を迎うれども其の首を見ず、之に随えども其の後を見ず。古の道を執りて、以て今の有を御し、以て古始を知る。是を道紀と謂う。 |
【十四】見ようとしても見えないものを「夷」といい、聴こうとしても聴こえないものを「希」といい、捕えようとしても捕えられないものを「微」という。これらは突き止めることができないため、混ぜ合わせて一つにしておく。これらはその上が明るくはなく、その下が暗くはない。果てしなく続き、名付けようがなく、形のないものに戻っていく。これを姿のない姿、形のない形であり、これを「忽恍」という。これを前から迎えても頭が見えず、従っても背中は見えない。古代からの「道」を実践して、今あるものを制御することで、古の始まりを知ることができる。これを道の理という。
【顯德第十五】古の善く士たる者は、微妙玄通、深くして識る可からず。夫れ唯だ識る可からず、故に強いて之が容を為す。与として冬に川を渉るが若く、猶として四隣を畏るるが若く、儼として其れ客の若く、渙として氷の将に釈けんとするが若く、敦として其れ樸の若く、曠として其れ谷の若く、混として其れ濁れるが若し。孰か能く濁りて以て之を静かにして徐ろに清まさん。孰か能く安んじて以て之を動かして徐ろに生ぜん。此の道を保つ者は、盈つるを欲せず。夫れ唯だ盈たず、故に能く敝れて新たに成さず。 |
【十五】昔の優れた士は、掴みどころがなく、奥深くあらゆることに通じており、人として深く知ることはできない。その深さは測り知れないが、敢えてその姿を語ろう。注意深いことは、凍った冬の川を渡るようであり、慎重なことは四方の隣国を恐れるようであり、厳かなことは賓客のようであり、和やかなことは氷が溶けるようであり、素朴なことは原木のようであり、広々としていることは谷のようであり、全てを含むことは濁った水のようである。誰がその濁った水を静かにさせて、清らかにできるだろうか。誰が安定しているものを動かして、ゆっくりと活動させるだろうか。この道を体得している者は、満たされるのを欲しない。そもそも満ち足りようとしないから、壊れてもまた生成される。
【歸根第十六】虚を致すこと極まり、静を守ること篤し。万物並び作るも、吾は以て其の復るを観る。夫れ物の芸芸たるも、各〻其の根に復帰す。根に帰るを静と曰い、是を命に復ると謂う。命に復るを常と曰い、常を知るを明と曰う。常を知らざれば、妄りに作して凶なり。常を知れば容、容なれば乃ち公、公なれば乃ち王、王なれば乃ち天、天なれば乃ち道、道なれば乃ち久し。身を没するまで殆うからず。 |
【十六】心をできる限り空虚にして、ひたすら静寂を守る。そうすれば、万物は生成されもそれらが復帰する様子を見ることができる。万物はどれだけ盛んに繁殖しも、最後は根元へと復帰する。根元に復帰することを静といい、これを根元の道に帰るという。運命に従うことを常といい、常を知ることを明知という。常を知らなければ、みだりに行動して災いを起こす。常を知れば全てを包容する。全てを包容すれば公平であり、公平であることは王であり、王であることは天であり、天であることは道と一体であり、道と一体であれば永遠である。そうすれば一生危うくはない。
【淳風第十七】太上は、下之れ有るを知るのみ。其の次は之に親しみて之を誉む。其の次は之を畏る。其の次は之を侮る。信足らざればなり。悠として其れ言を貴べ。功成り事遂げて、百姓皆我自ら然りと謂う。 |
【十七】最上の君主は、人民はただその存在を知っているだけである。その次の君主は、人民は親しんで誉める。その次の主君には、人民は畏れる。その次の君主に、人民は馬鹿にする。君主に信用がないからだ。君主が慎重に言葉を大切にし、功績をあげ事を成すと、人民は信用するようになるだろう。
【俗薄第十八】大道廃れて、仁義有り。智恵出でて、大偽有り。六親和せずして、孝慈有り。国家昏乱して、忠臣有り。 |
【十八】大いなる道が廃れれると、仁義が生まれた。知恵が出てくると、偽りが生まれた。親族の仲が悪くなると、孝行が生まれた。国が混乱すると、忠臣が現れた。
- 大道廢、有仁義(大道廃れて仁義あり)
無為自然の大道が無くなってしまったから、仁義(道徳)というものが大切にされるようになった。理想的な治世においては道徳は必要なく、道徳は作為的なものと考えています。
【還淳第十九】聖を絶ち智を棄つれば、民利百倍す。仁を絶ち義を棄つれば、民孝慈に復す。巧を絶ち利を棄つれば、盗賊有ること無し。此の三者は、以て文足らずと為す。故に属ぐ所有らしむ。素を見わし樸を抱き、私を少なくし欲を寡なくす。 |
【十九】人民が知恵を捨てれば、福利は百倍になる。人民が仁義を捨てれば、孝行と慈愛が戻ってくる。人民が功利と利益を捨てれば、盗賊がいなくなる。この三つではまだ十分ではない。拠り所があるとしよう。外面は生地のまま、内面は原木のまま、私心をなくし、欲を少なくする。
【異俗第二十】学を絶てば憂い無し。唯と阿とは、相去ること幾何ぞ。善と悪とは、相去ること何若。人の畏るる所は、畏れざる可からず。荒として其れ未だ央きざるかな。衆人は煕煕として、太牢を享くるが如く、春、台に登るが如し。我独り怕として、其れ未だ兆さず、嬰児の未だ孩わざるが如し。乗乗として帰する所無きが若し。衆人は皆余り有り。而るに我は独り遺るるが若し。我は愚人の心なるかな。沌沌たり。俗人は昭昭たり。我は独り昏きが若し。俗人は察察たり。我は独り悶悶たり。忽として海の若く、漂として止まる所無きが若し。衆人は皆以うる有り。而るに我は独り頑にして鄙に似る。我は独り人に異なりて、母に食わるるを貴ぶ。 |
【二十】学ぶことを止めれば、憂うことは無くなる。「はい」と「ああ」はどれほどの違いがあろうか。善と悪はどれほどの違いがあろうか。人々が畏れることは、畏れないわけにはいかない。道は果てしなく、辿り着くことなどできない。人々は嬉々として、宴を楽しむようで、春に高台に登るようだ。私はひとり何の気持ちも起こさず、笑わない赤子のようだ。定まるところがなく、帰るところもない者のようだ。人々はモノを持っているのに、私はひとりモノを失ったかのようだ。私は心が愚かなのである。私は愚鈍であり、人々は明晰である。私はひとり暗愚であり、明敏である。私は悶々として海のように、強い風が吹くように、止まることがことがないようだ。人々は有用なのに、私は頑迷な田舎者のようだ。人々は有用なのに、私は頑迷な田舎者のようだ。しかし、私だけが人々と異なって、道という母を大切にしている。
- 絶學無憂(学を絶てば憂いなし)
虚偽が生まれたのは、人間の賢(さか)しさが横行するようになったからと考えており、学問や知識を重視する風潮を批判しています。
【虛心第二十一】孔徳の容は、唯だ道に是れ従う。道の物たる、唯だ怳唯だ忽。忽たり怳たり、其の中に像有り。怳たり忽たり、其の中に物有り。窈たり冥たり、其の中に精有り。其の精甚だ真、其の中に信有り。古より今に及ぶまで、其の名去らず。以て衆甫を閲ぶ。吾何を以て衆甫の然るを知るや。此を以てなり。 |
【二十一】大いなる徳を持つ人間の有様は、ただ道に従っている。道というものはおぼろげで奥深い。おぼろげで奥深いが、その中に形を持っている。その中に実体がある。奥深く薄暗いが、その中に精気がある。その精気は充実していて、その中に確かな信がある。古代から現在に至るまで、道は存在しており、あやゆるもの始まりとなる。私はどうして万物の始まりを知ったのか。それは道よってである。
【益謙第二十二】曲なれば則ち全く、枉なれば則ち直し。窪なれば則ち盈ち、敝なれば則ち新なり。少なければ則ち得、多ければ則ち惑う。是を以て聖人は一を抱き、天下の式と為る。自ら見わさず、故に明らかなり。自ら是とせず、故に彰る。自ら伐らず、故に功あり。自ら矜らず、故に長し。夫れ唯だ争わず、故に天下能く之と争う莫し。古の所謂曲なれば則ち全しとは、豈に虚言ならんや。誠に全くして之を帰す。 |
【二十二】曲がっているから全うでき、屈しているから真っ直ぐになれ、窪んでいるから満ちることができ、破れているから新しくできる。少ないから得ることができ、多ければ迷うことになる。そのため聖人は唯一の道をもち、世の中の人々の模範となる。自ら見せびらかさないから、より見られることになる。自ら正しいと主張しないから、その是非が明らかになる。自ら功を誇らないから、功績を上げることができる。自ら才を誇らないから、長く保つことができる。聖人は争うことをしないから、天下で誰も彼と争うことはできない。古代の人が言う「曲がっているから全うできる」とは嘘ではない。我が身を全うして天に帰する。
【虛無第二十三】希言は自然なり。飄風は朝を終えず、驟雨は日を終えず。孰か此を為す者ぞ。天地なり。天地すら尚お久しきこと能わず、而るを況んや人に於いてをや。故に道に従事する者は、道は道に同じくし、徳は徳に同じくし、失は失に同じくす。道に同じくするとは、道も亦た之を得るを楽しむ。徳に同じくするとは、徳も亦た之を得るを楽しむ。失に同じくするとは、失も亦た之を得るを楽しむ。信足らざれば、信ぜられざる有り。 |
【二十三】何も聞こえないのが自然の道である。疾風も朝中吹き続けることはなく、暴風も一日中降り続くこともない。誰が風や雨を起こしているのか。それは天地である。天地すら長く続けることが出来ないのだから、人間では尚更である。道に従っている者は、道と一つになり、徳に従っている者は、徳と一つになり、道を失ったものは、失と一つになる。道と一つになった者は、道もまたその者を受け入れる。徳と一つになった者は、道もまたその者を受け容れる。失と一つになった者は、道もまたその者を失とする。誠実さがなければ、信頼されることはない。
【苦恩第二十四】跂つ者は立たず、跨ぐ者は行かず。自ら見す者は明らかならず、自ら是とする者は彰かならず。自ら伐る者は功無く、自ら矜る者は長しからず。其の道に於けるや、余食贅行と曰う。物或いは之を悪む。故に有道の者は処らず。 |
【二十四】つま先で立つ者は、立ち続けることができず、大股で歩く者は、歩き続けることができない。自ら見せびらかす者は、ものをよく見ることができず、自ら正しいとする者は、是非を明らかにできず、自ら誇る者は功がなくなり、自ら才を誇る者は長続きしない。これは道の観点からいうと、余った食べ物、余計な振る舞いという。人々はそれを嫌う。だから道に従う者はそのようなことはしない。
【象元第二十五】物有り混成し、天地に先だちて生ず。寂たり寥たり、独立して改まらず、周行して殆まらず、以て天下の母と為す可し。吾其の名を知らず。之に字して道と曰う。強いて之が名を為して大と曰う。大なれば曰に逝き、逝けば曰に遠く、遠ければ曰に反る。故に道は大なり。天は大なり。地は大なり。王も亦た大なり。域中に四大有り、而して王は其の一に居る。人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。 |
【二十五】混沌という物が天地よりも先に誕生した。混沌は音もなく静かであり、独り立ちして何物にも依らず、動き回り止まらず、それは天下の母というべきものだ。私はその名前を知らない。これに仮の名をつけて道と呼んでいる。強いて名をつければ、「大」と言えるだろう。大であるとどこまでも動いていき、どこまでも動くと遠くなり、遠くなるとまた元に戻ってくる。道は大であり、天は大であり、地は大であり、王もまた大である。この世には四つの大なるものがあり、王はその一つである。人は地に依り、地は天に依り、天は道に依り、そして道は自然に依っている。
【重德第二十六】重きは軽きの根たり、静かなるは躁がしきの君たり。是を以て聖人は、終日行けども輜重を離れず。栄観有りと雖も、燕処して超然たり。奈何ぞ万乗の主にして、身を以て天下より軽しとせんや。軽ければ則ち臣を失い、躁がしければ則ち君を失う。 |
【二十六】重いものは軽いものの根本であり、静かなものは騒がしいもの君主である。だから君主は終日旅をしても荷馬車から離れず、立派な館にいても安らかで心煩わされない。万の戦車をもつ国の君主でありながら、どうして我が身を天下の人々より軽く扱えようか。軽はずみな行動は臣下を失い、騒がしい振る舞いは君主の立場を失う。
【巧用第二十七】善く行くものは轍迹無く、善く言うものは瑕讁無し。善く数うるものは籌索を用いず、善く閉ざるものは関楗無くして、開く可からず。善く結ぶものは縄約無くして、解く可からず。是を以て聖人は、常に善く人を救う、故に人を棄つる無し。常に善く物を救う、故に物を棄つる無し。是を襲明と謂う。故に善人は不善人の師とし、不善人は善人の資なり。其の師を貴ばず、其の資を愛せず。智と雖も大いに迷う。是を要妙と謂う。 |
【二十七】優れた旅人は車の跡を残さない。優れた弁論家は言葉に瑕(ミス)を残さず、優れた算術家は数える棒を用いない。優れた番人は閂(かんぬき)を使わないのに、誰も開けることはできず、結び方が優れた者は縄を使わないのに、誰もほどくことができない。そのため聖人はいつも人民を上手く救うことができるので、人民を見捨てることはない。いつも物を巧みに扱うので、物を捨てることはない。これは聖人が賢明だからである。それため善人は不善の者の師であり、不善の者は善人の元手である。その師を尊敬しなかったり、その元手を愛せない者は、どんなに知恵があっても愚かである。これは重要な真理である。
【反朴第二十八】其の雄を知りて、其の雌を守れば、天下の谿と為る。天下の谿と為れば、常徳離れず、嬰児に復帰す。其の白きを知りて、其の黒きを守れば、天下の式と為る。天下の式と為れば、常徳忒わず、無極に復帰す。其の栄を知りて、其の辱を守れば、天下の谷と為る。天下の谷と為れば、常徳乃ち足りて、樸に復帰す。樸散ずれば則ち器と為る。聖人之を用うれば、則ち官長と為す。故に大制は割かず。 |
【二十八】剛強さを知りながら、柔弱な者を忘れないものは、世の中の谷となる。世の中の谷となれば、普遍的な徳は離れることがなく、赤子の状態に帰るだろう。賢明でありながら、暗愚な者を忘れないものは、世の中の模範となる。世の中の模範であれば、普遍的な徳と違わず、限界のない状態へ帰るだろう。栄誉の誇らしさを知りながら、汚辱の恥ずかしさを忘れないものは、世の中の谷となる。世の中の谷であれば、普遍的な徳は満ちあふれ、素朴な原木の状態へ帰るだろう。原木が削られると、それは器(人材)となる。聖人は器を用いて、官吏の長とする。原木のままでは役割はない。
【無爲第二十九】将に天下を取らんと欲して之を為せば、吾其の得ざるを見るのみ。天下は神器、為す可からず。為す者は之を敗り、執る者は之を失う。故に物或いは行き或いは随う。或いは呴し或いは吹く。或いは強め或いは羸む。或いは載せ或いは隳す。是を以て聖人は、甚を去り、奢を去り、泰を去る。 |
【二十九】天下を取ろうとしてこれを成そうとすれば、それを得ることはできない。天下は神聖な器であり、意図的にどうかなるものではない。何とかしようとすると壊してしまい、捕えようとすると失ってしまう。そのため自ら行く者もあれば、人の後に従う者もありる。静かな者もあれば、激しい者もあり、強壮な者もあれば、脆弱な者もあり、自愛する者もあれば、自棄になる者もある。そこで聖人は極端なことは止め、贅沢を止めて、不遜な態度を取らないのである。
【儉武第三十】道を以て人主を佐くる者は、兵を以て天下に強くせず。其の事は還るを好む。師の処る所は、荊棘生じ、大軍の後には、必ず凶年有り。善くする者は果すのみ。敢えて以て強きを取らず。果して矜ること勿く、果して伐ること勿く、果して驕ること勿し。果して已むを得ず、果して強くすること勿し。物は壮なれば則ち老ゆ、是を不道と謂う。不道は早く已む。 |
【三十】道を用いて君主を助ける者は、武力によって天下に強さを示すことはしない。武力を用いれば跳ね返ってくるからだ。軍隊が駐屯した場所は棘が生え、大きな戦の後は凶作の年になる。優れた将は戦を成し遂げるのみだ。あえて武力を示さず、成し遂げても才を誇らず、功を誇らず、高慢にならない。成し遂げても当然やるべきことをしたまでと思う。成し遂げても武力を誇示しない。万物は勢いがあるほど早く衰退してしまう。道に従っていないからだ。道に従わなければ早く滅びる。
【偃武第三十一】夫れ佳兵は不祥の器なり。物或いは之を悪む。故に有道者は処らず。君子居れば則ち左を貴び、兵を用うれば則ち右を貴ぶ。兵は不祥の器にして、君子の器に非ず。已むを得ずして之を用うれば、恬惔を上と為す。勝ちて美とせず。而るに之を美とする者は、是れ人を殺すを楽しむなり。夫れ人を殺すを楽しむ者は、則ち以て志を天下に得可からず。吉事には左を尚び、凶事には右を尚ぶ。偏将軍は左に居り、上将軍は右に居る。喪礼を以て之に処るを言う。人を殺すことの衆ければ、悲哀を以て之に泣き、戦い勝ちて喪礼を以て之に処る。 |
【三十一】武器というのは不吉な道具である。人々はそれを嫌う。そのため、道に従う者は武器を使うことはない。君子は左を上席とするが、戦争では右を上席とする。武器は不吉な道具なので、君子が用いる道具ではない。やむを得ずに用いる時は、拘らず使うのが良い。勝ってもそれを賛美しない。もし賛美するならば、それは殺人を楽しんでいることである。殺人を楽しむような者は、天下に志を果たすことはできない。吉時は左を上席とし、凶時は右を上席とする。副将は左に位置して、主将は右に位置する。それは葬儀の礼法に従ったものである。殺す人間の数が多いので、悲哀の気持ちでこれに泣き、戦に勝利しても、葬式の礼法に従う。
【聖德第三十二】道は常に名無し。樸は小なりと雖も天下敢えて臣とせず。侯王若し能く之を守れば、万物将に自ずから賓せんとす。天地は相合して、以て甘露を降し、民は之に令すること莫くして自ずから均し。始めて制して名有り。名も亦た既に有れば、夫れ亦た将に止まる所を知らんとす。止まる所を知るは殆からざる所以なり。道の天下に在るを譬うれば、猶お川谷の江海に与するがごとし。 |
【三十二】道は永遠に名を持たない。原木は小さくても、誰も支配できる者はいない。王侯が道を守れば、万物は自ら従うだろう。天地は調和して甘露を降らせ、人々は命令されなくても治まるだろう。原木は切られると、名が出来てくる。名が出来てくると、そこに止まらなければならない。止まる所を知っていれば、危険を回避することが出来る。世の中の道のあり方を譬えれば、川の水がより大きな海へと流れ込むようなものである。
【辯德第三十三】人を知る者は智、自ら知る者は明なり。人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。足るを知る者は富み、強めて行う者は志有り。其の所を失わざる者は久し。死して亡びざる者は寿し。 |
【三十三】他人を理解する者は知者であり、自分を理解する者は明晰である。他人に勝つ者には力があるが、自分に勝つ者にはさらに強い。満足できる者は富を得られ、努力する者は志が遂げられる。自分が居る場所を失わなければ長続きし、死すとも滅びない者は長寿である。
【任成第三十四】大道は氾として、其れ左右す可し。万物之を恃みて生ずるも、而も辞せず。功成りて名を有せず。万物を愛養すれども主と為らず。常に無欲なれば、小と名づく可し。万物之に帰すれども主と為らず、名づけて大と為す可し。是を以て聖人、終に自ら大とせず。故に能く其の大を成す。 |
【三十四】大いなる道は、溢れた水のように左右に行きわたる。万物は道に依拠しているが、道はそれを拒むことはない。功績を上げても、それを所有しようとしない。万物を育み養うが、それを支配することはない。道は無欲であるから、小さなものと名付けることができるが、万物が道へ帰りそれを支配することはないので、大きなものと名付けることもできる。聖人は自ら大きなものとしないので、大きなものとなりうる。
【仁德第三十五】大象を執りて、天下に往けば、往きて害あらず、安平太なり。楽と餌には、過客止まる。道の口より出づるは、淡として其れ味無し。之を視れども見るに足らず。之を聴けども聞くに足らず。之を用うれども既す可からず。 |
【三十五】道(大象)を守ると、世の中の人々が集まってくる。人々が集まってきてもそれらに害はない。世の中は安全で平和である。音楽と食事は旅人を立ち止まらせる。道が語られる言葉は淡白で味わいがない。道は目を凝らしても見ることはできず、耳を澄ませても聞くことができない。しかしその働きは尽きることがない。
【微明第三十六】将に之を歙めんと欲すれば、必ず固く之を張る。将に之を弱めんと欲すれば、必ず固く之を強くす。将に之を廃せんと欲すれば、必ず固く之を興す。将に之を奪わんと欲すれば、必ず固く之に与う。是を微明と謂う。柔弱は剛強に勝つ。魚は淵より脱す可からず。国の利器は、以て人に示す可からず。 |
【三十六】これを縮めようとするなら、必ず拡げなくてはならない。これを弱めようとするなら、必ず強めなくてはならない。これを廃しようとするなら、必ず盛んにしなくてはならない。これを奪いたいとするなら、必ず与えなくてはならない。これを奥深い明知という。柔弱なものは剛強なものに勝つ。魚は淵から離れてはならず、国の兵器も人民に見せないほうが良い。
【爲政第三十七】道は常に無為にして、而も為さざる無し。侯王若し能く之を守れば、万物将に自ずから化せんとす。化して作らんと欲すれば、吾将に之を鎮むるに無名の樸を以てせんとす。無名の樸は、亦た将に欲せざらん。欲せずして以て静かならば、天下将に自ずから定まらんとす。 |
【三十七】道はいつも自らは何もしないが、道によってなされないようなことは何もない。王侯が道を守れば、万物は自ら感化されるだろう。万物が感化されて、何かをしたいと思うのならば、名をも持たない原木を用いてそれを鎮める。名を持たない原木は、欲望を持つことはない。欲望を持たず静かならば、世の中は自然に安定するだろう。
- 道常無爲、而無不爲(常に道は無為にして為さざるなし)
万物は自ら行為する意思を持たず、しかし全てを成し遂げる。これが自然の法則であり、この法則を人間社会にも適用し、無為の姿勢が大切であると説きます。