一枚起請文とは
一枚起請文(いちまいきしょうもん)とは、1212年2月27日、法然が死の直前に自身で弟子への制誡(せいかい、戒め制すること)を記した文書です。
極楽往生するためには、ただひたすら南無阿弥陀仏を称え、必ず極楽往生するのだと信じること大切であるとし、それ以外に必要なことは何もないということを、法然自身が弟子のために記した文書とされています。
一枚起請文を読む
唐土我朝に、もろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。又学問をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。 |
浄土宗の念仏は、中国や日本の多くの学僧たちによって説かれている観想による念仏ではありません。また、仏典を学んでその意味を理解した上での念仏でもありません。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑いなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。 |
ただ、極楽に往生するためには、南無阿弥陀仏を称えて疑いなく往生するのだと信じること以外に、何も特別なことはありません。
ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。 |
ただし三心や四修などというものは全て、必ず南無阿弥陀仏を称えることで往生できるのだ、という思いの中に含まれています。
- 三心:至誠心(真実の心)、深心(深く信じる心)、回向発願心(極楽往生を願う心)
- 四修:無余修(余すところ無く修行すること)、長時修(長い時間修行すること)、無間修(休まず修行すること)、尊重修(恭しく修行すること)
この外に奥深き事を存ぜば、二尊のあわれみに外れ、本願にもれ候うべし。 |
これら以外のことが心の中に在れば、釈尊と阿弥陀仏の慈悲から外れ、本願の救いから洩れてしまうでしょう。
念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。 |
念仏を信じる人は、たとえ釈尊が生涯に説かれた教えを十分に学んだとしても、自分を一文字も知らない愚者と思い、無知な人々と同じように、智者のようには振舞わず、唯ひたすら念仏を称えるべきです。
証の為に両手印を以ってす。 |
証明のために両手の印を押します。
浄土宗の安心・起行この一紙に至極せり。源空が所存、この外に全く別義を存ぜず、滅後の邪義をふせがんがために所存を記畢んぬ。 |
浄土宗の安心と起行がこの一枚の紙に言い尽くされています。私、源空の考えは、これ以外に全く特別なことはありません。私の亡き後の誤った理解を防ぐために、思うところを記しました。
- 安心:極楽往生を願う者が具えるべき心構え。安とは安置、心とは心念の意味。
- 起行:極楽往生を願う者が自らの身・口・意の三業において起こす行為。
建暦二年正月二十三日 大師在御判 |
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