歎異抄を読む

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歎異抄とは

歎異抄(たんにしょう)とは、親鸞に師事した唯円(ゆいえん)により、鎌倉時代後期に書かれたとされます。親鸞の教えを忠実に伝えようという意図の下で著されました。

書名は、親鸞滅後に浄土真宗の教団内に起こった親鸞の教え(専修念仏)とは異なる教義(異義・異端)を嘆いたものです。

専修念仏

専修念仏(せんじゅねんぶつ)とは、修行を行わずに只管(ひたすら)念仏を唱えることを意味し、浄土に往生するために「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏に帰依する)と唱えることを指します。

阿弥陀仏の本願には、善人も悪人も分け隔てなく、ただ信じる心一つが必要とされます。それは、阿弥陀仏の本願のおかげで、必ず往生できると信じることであり、阿弥陀仏の本願の他に善行は必要なく、念仏に勝る以上の善はないと説きます。

悪人正機

悪人正機(あくにんしょうき)とは、「悪人」こそが阿弥陀仏の本願(誓願)による救済の対象であると説く、浄土真宗の重要な教義です。尚、ここで言う「悪人」とは、善悪の判断すらできない、煩悩具足の凡夫を指します。

自力で善行功徳を積もうとする者は、他力(阿弥陀仏)を頼りにする心が欠けているため、阿弥陀仏の本願とはなりえず、自力を捨てて、他力を頼ればこそ、真実の浄土への往生を遂げると考えます。

歎異抄を読む

序文
ひそかに愚案ぐあんめぐらしてほぼ古今をかんがふるに、先師の口伝くでん真信しんしんに異なることをなげき、後学こうがく相続の疑惑あることを思ふ。さいわい有縁うえんの知識に依らずは、いかでか易行いぎょう一門いちもんに入ることを得んや。

つたない考えを巡らして、親鸞聖人のご在世の頃と今とを比べてみると、聖人から直接お聞きした真の信心とは異なっていることが嘆かわしく、後進の者が正しく教えを受け継いでいけるのか疑問に思います。幸いにも良き師に会い、導きを受けなければ、どうしてこの易行の道(真の仏道)を得ることができましょうか。

まった自見じけん覚語かくごを以て他力の宗旨を乱ることなかれ。故に故親鸞聖人の御物語おんものがたりおもむき、耳の底にとどむる所、いささこれしるす。ひとへに同心どうしん行者の不審をさんぜんが為なりと云々。

決して、自己流の考えで他力本願の宗旨を乱すことがあってはなりません。そこで、故親鸞聖人からお聞きした教えの中で、今も耳に残る言葉を少しでも書き残しておきたいと思います。これはひとえに、親鸞聖人の教えを学ぶ者の不審を払い除きたいからです。

第一条
弥陀みだ誓願せいがん不思議にたすけられまゐらせて往生おうじゅうをばとぐるなりと信じて、念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨せっしゅふしゃの利益にあづけしめたまふなり。

阿弥陀仏の誓願のおかげで、必ず往生できることを信じて、念仏を称えようと思いたったなら、すぐにいかなる人も漏らさず、ご利益を得ることができるのです。

弥陀みだの本願には老少善悪ろうしょうぜんあくのひとをえらばれず、ただ信心をようとすとしるべし。そのゆゑは罪悪深重じんじゅう・煩悩熾盛しじゃうの衆生をたすけんがためのがんにまします。 

阿弥陀仏の本願には、老いも若きも、善人も悪人も分け隔てなく、ただ信じる心一つが必要とされます。その理由は、罪が重く、煩悩の強い悪人を救うために立てられたのが、阿弥陀仏の本願だからです。

しかれば、本願を信ぜんには他の善もようにあらず、念仏にまさるべきぜんなきゆゑに、悪をもおそるべからず。弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々うんぬん

それゆえ、阿弥陀仏の本願の他には善行は必要なく、念仏に勝る以上の善はないため、どんな悪行を犯しても恐れる必要はありません。阿弥陀仏の本願で助からない悪はないからです。このように言われました。

第二条
をのをのの十余じゅうよ箇国のさかひをこえて、身命しんみょうをかへりみずして、たずねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生おうじょう極楽のみちをとひきかんがためなり。

皆さんが十を超える国堺を越えて、身命を顧みず、この親鸞を訪ねて来られたのは、ひとえに極楽往生の道を聞き出すためでしょう。

しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知ぞんちし、また法文ほうもん等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば南都北嶺ほくれいにも、ゆゆしき学生がくしょうだちおほくおわせられてそうろふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。

しかし、念仏の他の極楽往生の道や、秘密の法文をこの親鸞が知っているのではないかと思い、それを聞きたくて来られたのなら、それは大きな誤りです。それならば、奈良や比叡にでも行った方がよいでしょう。あそこには法然上人を批判した錚々たる学僧方がいらっしゃっるので、念仏以外の往生の道を聞くことができるでしょう。

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて信ずるほかに別の子細しさいなきなり。念仏はまことに浄土じょうどにむまるるたねにてやはんべらん。また地獄におつべきごうにてやはんべるらん。総じてもて存知ぞんちせざるなり。

親鸞においては「ただ専ら念仏して、阿弥陀仏に助けていただこう」という、法然上人の仰せを信ずる他に何もないのです。念仏で本当に浄土に生まれるのか、また地獄に落ちるのか、全くこの親鸞の知るところではありません

たとひ、法然聖人しょうにんにすかされまゐらせて、念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余じよぎょうもはげみて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄にも落ちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定いちじょうすみかぞかし。

たとえ法然上人にだまされて、念仏して地獄に落ちても、この親鸞に何の後悔もありません。なぜなら、念仏以外の修行で仏になれる私が、念仏したから地獄に落ちたのであれば、だまされたという後悔もあるでしょう。しかし、浄土に行けるほどの修行ができないこの親鸞は、地獄しか行き場がないのです。

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教、虚言きょごんなるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導ぜんどう御釈おんしゃく虚言きょごんしたまふべからず。善導の御釈おんしゃくまことならば、法然のおほせそらごとならんや。法然のおほせまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。

阿弥陀仏の本願がまことなら、釈尊の説法に偽りがあるはずはない。釈迦の説法がまことならば、善導大師の解釈に偽りがあるはずはない。善導大師の解釈がまことならば、法然の教えに偽りがあるはずはない。法然の教えがまことならば、親鸞の言うことに偽りがあるはずはないのです。

せんずるところ、愚身ぐしん信心しんじんにおきてはかくのごとし。
このうへは念仏をとりて信じたてまつらんとも、また捨てんとも面々めんめんおんはからひなりと云々うんぬん

しかしながら、愚かなこの身の信心においてはこの通りです。この上は念仏を信じようよも、捨てようとも、皆さまのご判断次第です。このように言われました。

第三条
善人ぜんにんなほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるをのひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。この条、一旦そのいはれあるににたれども本願他力の意趣いしゅにそむけり。

善人でさえ往生するのだから、悪人はなおさら往生することができます。しかし、世間の人は常に、悪人でさえ往生するのだから、善人はなおさら往生すると言います。これはそれらしく聞こえますが、阿弥陀仏の本願の趣旨に反しています。

そのゆゑは、自力じりき作善さぜんのひとはひとへに他力たりきをたのむこころかけたるあひだ弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして他力をたのみたてまつれば真実報土ほうどの往生をとぐるなり。

なぜなら、自力で善行功徳を積もうとする人は、他力を頼りにする心が欠けているため、阿弥陀仏の本願とはなりません。自力を捨てて、他力を頼ればこそ、真実の浄土への往生を遂げるのです。

煩悩具足のわれらはいづれの行にても生死しょうじをはなるることあるべからざるをあはれみたまひて願をおこしたまふ本意ほんい、悪人成仏じょうぶつのためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因しょういんなり。よつて、善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

煩悩のかたまりである我々が、どんな修行を試みても、生死の迷いから離れなれないことを憐れんで、本願を立てた阿弥陀仏の本意は、悪人を成仏させるためです。他力を頼るしかない悪人こそ、最も往生する理由なのです。したがって、善人さえも往生するのだから、まして悪人は往生するのです。このように言われました。

第四条
慈悲じひに聖道・浄土のかはりめあり。聖道しょうどうの慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。

慈悲について、聖道仏教と浄土仏教とで違いがあります。聖道の慈悲は、ものを憐れみ、悲しみ、育むのです。しかし、思うように助かることはほとんど有りません。

浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈だいじ大悲心だいひしんをもつて、おもふがごとく衆生を利益りゃくするをいふべきなり。

浄土の慈悲とは、念仏して、早く仏になって、大いなる慈悲をもって、思うままに衆生を救うことをいいます。

今生こんじょうに、いかにいとほし不便ふびんとおもふとも、存知ぞんじのごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば念仏もうすのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと云々。

この世で、どんなに可哀そうと思っても、ご存じの通り、助けることは難しいため、聖道の慈悲は終始徹底しないのです。だから、念仏を唱えることだけが、真に徹底した大慈悲心であるのです。このように言われました。

第五条
親鸞は父母おも孝養こうようのためとて一返にても念仏申したることいまだ候はず。
そのゆゑは、一切の有情うじょうはみなもつて世々せぜ生々しょうじょうの父母兄弟なり。いづれも、この順次しょうに仏になりてたすけ候ふべきなり。

この親鸞は、亡き父母の供養のために念仏したことなど、今まで一度もありません。なぜなら、すべての命あるものは、生まれ変わりを繰り返す中で、父母兄弟であるからです。そんな人たちを、次の世で仏に生まれて助けなければなりません。

わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を廻向えこうして父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生ししょうのあひだ、いづれの業苦ごうくにしづめりとも、神通方便じんつうほうべんをもつて、まづ有縁うえんすべきなりと云々。

自力で善ができるのあれば、念仏の功徳により父母を助けることもできたでしょう。しかし、自力を捨てて、早く浄土の悟りを開けば、迷いの世界でどんな苦しみに沈んでいても、仏の神通力と方便によって、縁のある人を救うことができるのです。このように言われました。

第六条
専修せんじゅう念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論そうろんの候ふらんこと、もつてのほかの子細しさいなり。親鸞は弟子一人ももたず候ふ。

念仏ひとすじの道を行く仲間の中で、自分の弟子だ、他人の弟子だという争いがあることはもっての外です。この親鸞は一人の弟子も持っていません。

そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこときはめたる荒涼こうりょうのことなり。

何故なら、私が教えて念仏をさせているのならば、私の弟子と言えるかもしれません。しかし、阿弥陀仏のお力によって念仏をしている者を、自分の弟子だなどというのはとんでもないことです。

つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることあるをも、師をそむきてひとにつれて念仏すれば往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説ふかせつなり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほにとりかへさんと申すにや。かへすがへすもあるべからざることなり。

縁があれば伴い、縁がなくなれば離れることもあります。師に背いて、他の人に従って念仏するようでは往生できない、とは言ってはならないのです。阿弥陀仏から頂いた信心を、自分のものに取り返そうというのでしょうか。重ねて申しますが、あってはならないことなのです。

自然のことはりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。

阿弥陀仏の救いが叶えば、阿弥陀仏の恩を知り、また師の恩をも知るはずです。このように言われました。

第七条
念仏者は無礙むげの一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神てんじん地祇じぎ敬伏けいふくし、魔界外道げどう障礙しょうげすることなし。罪悪も業報ごうほうを感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑに無礙むげの一道なりと云々。

念仏をする者の道は妨げられることはありません。なぜならば、信心をもつ者には、天地の神々も敬いひれ伏し、魔界や外道の者もその道を邪魔することはできないからです。罪悪の報いも、いかなる善も及びません。そのため妨げられることのない道なのです。このように言われました。

第八条
念仏は行者のために非行ひぎょう非善ひぜんなり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと云々。

念仏は、称える者にとっては行でもなく善でもない。自分の力で救われるわけではないから、自分の行でもなく、自分の善でもない。ひとえに阿弥陀仏による他力であり、自力ではないのだから、行でもなく善でもない。このように言われました。

第九条
念仏申し候へども、踊躍ゆうやく歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ふしんありつるに、唯円房ゆいえんぼうおなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。

念仏を称えても、喜ぶ心が起きず、早く浄土に行きたいと思わないのは、どうしてでしょうかとお尋ねしたところ、この親鸞も疑問に思っていたのだが、唯円房おまえもか。よくよく考えてみれば、天に踊り地に踊るほどに喜ぶところを、喜ばないところが、ますます往生は間違いないと思うのです。

よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為しょいなり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。

喜ぶはずの心を抑えて喜ばないのは煩悩のしわざです。しかし阿弥陀仏はすでにご承知で、煩悩の凡夫を救うと仰せられのだから、他力の悲願は、このような私たちの為であったと知ることができて、いよいよ頼もしく思われます。

また、浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも煩悩の所為なり。久遠劫くおんごうよりいままで流転るてんせる苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養あんようの浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛こうじょうに候ふにこそ。

また、極楽へ早く往きたいという心もなくて、少し病気になると死ぬのではなかろうかと、心細く思うのも煩悩のしわざである。遠い過去から迷い苦悩してきたこの世を捨てることができず、まだ見ぬ安らかな浄土を恋しいと思わないところが、まことに煩悩が盛んであるというよりほかはありません。

なごりをしくおもへども娑婆しゃばの縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。

名残惜しく思いながらも、この世との縁が尽きて、この命が終われば、かの浄土に参らせていただくのです。早く極楽に行きたい思わない我々のような者を、阿弥陀仏は憐れんでくださるのだ。

これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと云々。

それを思えば、ますます阿弥陀仏の慈悲は頼もしく、往生は間違いないと思うのです。これとは逆に、喜びの心のあまり、早く浄土に行きたいと思うのは煩悩ではないかと疑うのではないだろうか。このように言われました。

第十条
念仏には無義むぎをもつて義とす、不可称ふかしょう、不可説、不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。

念仏においては、自力のはからいを行わないことが、良いはからいなのです。それは、言うことも、説くことも、思うこともできない広大なものだからです。親鸞聖人はこのように言われました。

 

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