坐禅和讃とは
坐禅和讃は、江戸中期の禅僧である白隠による著作で、坐禅の意義や効用について述べられています。それまで漢文が多かった禅宗の書物の内容が、一般の人にも分かり易い七五調の和讃の形式で書かれています。
白隠は駿河の国(今の静岡県)の出身で、多くの弟子を輩出し、臨済宗の中興の祖と呼ばれています。
坐禅和讃を読む
衆生本来仏なり、水と氷の如くにて、水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし |
私たちは本来は仏である、水と氷のようなもので、氷が溶けて水になるように、私たち以外に仏があるわけではない。
衆生近きを知らずして、遠く求むる儚さよ、譬えば水の中に居て、渇を叫ぶが如くなり |
自己が仏であることを知らず、それを遠くに求めるのはなんと愚かなことか。例えば水の中で、喉の渇きを訴えるようなものだ。
長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず、六趣輪廻の因縁は、己が愚痴の闇路なり |
裕福な家に生まれながら、貧窮しているのに異ならない。六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道)を輪廻する原因は、自己の執着に迷っているからである。
闇路に闇路を踏そえて、いつか生死を離るべき、夫れ摩訶衍の禅定は、称歎するに余りあり |
執着に執着を重ねて、いつになったら迷いの世界から解放されるのか。大乗の坐禅の素晴らしさは、とても言葉では表せられない。
布施や持戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等、其品多き諸善行、皆この中に帰するなり |
布施や持戒などの六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)や、念仏、懺悔などの修行や、様々な善行も、全て坐禅に行きつくのである。
一座の功をなす人も、積し無量の罪滅ぶ、悪趣いづくに有ぬべき、浄土即ち遠からず |
一度の坐禅をしただけでも、過去に積み重ねた罪が消え去る。六道など何処にもなく、浄土も遠くはない。
辱くも此の法を、一たび耳にふるゝ時、讃嘆随喜する人は、福を得る事限りなし |
有り難い仏の教えを、一度でも聞いた時に、それを讃え喜ぶ人は、限りない福徳を得るであろう。
況や自ら回向して、直に自性を証すれば、自性即ち無性にて、既に戯論を離れたり |
ましてや自ら坐禅を行い、自己の本性に気付くことができれば、それは実体のない “空” であり、既に迷いから解放されている。
因果一如の門開け、無二無三の道直し、無相の相を相として、行くも帰るも余所ならず |
原因と結果は一つのものであり、二つや三つではなく唯一つの道である。全ては実体のない “空” であれば、何があっても迷うことはない。
無念の念を念として、謡うも舞ふも法の声、三昧無碍の空広く、四智円明の月さえん |
全ての雑念を振り払えば、謡うことも舞うことも仏の教えに適う。精神を統一して執着をなくせば心は自由になり、仏の智慧は満月のように輝いている。
此時何をか求むべき、寂滅現前するゆえに、当所即ち蓮華国、此の身即ち仏なり |
この時他に何か求めるものがあるだろうか。悟りは今ここに実現している。この場所が極楽浄土であり、この自分自身が仏である。